学びからの逃亡

『なんのために勉強するのか』『この知識は何の
役に立つのか』。教育改革や子供たちの学習離れ
をめぐって、このような問いが頻繁に登場するの
も、裏を返せば、各人にとっての学習の意味が問
われているからであり、意味のある学習が求めら
れているからである。
しかし、実のところ、そもそもこうした問いにだ
れもが納得のいく回答などあるはずがない。
面白い-つまらない、楽しい-苦痛、
すぐに役立つ-役に立ちそうもない。
『面白くて役に立ちそうな』授業が求められるの
は、性急に各人にとっての意味を求める問いが社
会に十万していることの裏返しである。
僕自身も大学で繰り返し同じ問いを向けられま
す。『これは何の役に立つのですか?』という問
いが、ほんとうに無邪気に、最優先のものとして
学生たちの口から発せられる。『何のために勉強
するのか?』『この地域は何の役に立つのか?』
去年、ある国立大学で集中講座をしたときに、そ
の大学の新聞部の学生からインタビューを受け
たことがあります。その学生が発した最初の質問
が『現代思想を学ぶことの意味は何ですか?』と
いうものでした。
その問いを発した学生は、もし僕がこの問いに説
得力のある回答をしたらそれを学んでもよいが、
僕の答えに納得できなければ『学ばない』と宣言
しているわけです。つまり、ある学術分野が学ぶ
に値するか否かの決定権は自分に属していると
いうことを、問いを通じて表明しているのです。
僕はこの傲慢さと無知にほとんど感動しました。

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